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私のいじめ体験は三鷹の小学生1年からはじまる。(幼稚園時代も力学上あったがそれは省く)生まれた時から私は喘息とアトピー性皮膚炎がひどく、何をするにも休みがちだった。小学生時代は1年のうち2回は必ず入院していた。小2の頃、足が動かないと嘘をつき、不登校を始めた。足を使わずにいると、本当に動かなくなってしまい、膝をつきながら両腕を松葉杖のようにして校舎の階段を登った。
タナベ君という知的障害の子が一人、40名近い私のクラスにいて、よく集団でいじめられていた。別のクラスではウエノ君というやはり知的障害の子がいたが、とにかくこの学校には別に「フジミ学級」という障害者の子の特別の校舎があるほど障害の子が多かった。どうして「フジミ学級」にタナベ君が行かなかったのかはその頃知るよしもなかったが、タナベ君は、どういうわけか、私一人にだけなついていた。いつも後ろをついてくるのである。
タナベ君は毎日「葛原くうん、いっしょに帰ろう」もしくは「一緒に帰ってくれる?」と聞き、私が「ウン」と言えば顔をめちゃくちゃにほころばせて喜んだが、「イヤだ」と言うとうなだれて絶望的な顔を露骨にするのでひどく私を困らせた。しかし、保護者然として彼を守るのが私をいい気にさせてもいた。いじめの内容は他愛のないことかもしれない。「バカが移る」「汚い」「臭い」この程度はまだしも、暴行が日常にあった。タナベ君の尻を蹴飛ばし、掃除の時間では箒で思い切り叩かれていたことをよく思い出す。事件には発展しなかったけど。…私には「アトピーが移る」程度で、それは聞き流したが、彼はよく私に助けの視線を投げたが、ほとんど止めることができなかった。止めることをしなかった時の方がよっぽど多かった。しかしよく、タナベ君と一緒に帰り、タナベ君のお母さんから「この子をよろしくね」と拝むように言われることが嬉しかったのだ。お母さんは病的に美しく、痩せて、やさしかった。タナベ君の家でよくファミコンをした。ツインビー、オバケのQ太郎が好きだった。
小学生4年の秋、私の家が火事になり引越しをせざるを得なくなった。引越しをすること(別れ)が理解できず、最後か、最後に近い日に、「葛原くうん、いっしょに帰ろう」と言われたとき、私は黙っていることしかできなかった。頭の中ではっきり「ぼくはタナベ君を見捨てるんだ」と意識していた。
何度か引越しをして落ち着いた先は聖蹟桜ヶ丘であった。転校生として、私は卒業までなじめなかった。やはり入院をくりかえし、森田式療法のある病院に通っていた。
中1の夏、いじめに遭った。いじめられていた子といじめていた集団の間に入ってしまい、標的が私に代わったのだ。個人が個人を…であったら何の問題もなかった。しかし集団はここでは苛烈だった。標的となった翌朝から体操着、上履き、ノートはなくなり、画鋲がまかれ、集団無視と最後には暴行となった。防衛上、今はほとんど記憶が無いが、殺される恐怖を体験した。この時、教師は私が原因であるとした。絶望した。
その後、すぐにエスケープをした。半年だけの在籍だった。翌年、私は父親の紹介で知的障害者がつどう練馬のクッキー屋で働くことになった。そこではタナベ君同様、みんなと仲良くなり、寄り添い、よくふざけ合った。少しだけ笑えるようになった。
中学三年の春に、特別学級「F組」に編入した。同じいじめが遭った学校の中なので初登校の日は悲愴な思いだったことを覚えている。「F組」という名称もおかしなものだった。当時こういう隔離教室しかなかったのである。しかも「F組珍しさ」で他の生徒がよく覗きにきた。しかし、構内からは保健室と教員室を通過しなければならず、それも稀だった。先生が見張っていたのだ。「F組」はいじめに遭った生徒、もしくは特別な事情と環境で通学できない生徒約10数名の小さなクラスだった。
「F組」の先生は親切だった。私は多摩川を得てから野生児として毎日釣りをしていた。「F組」でできた友達を巻き込んで、放課後、釣竿をかつぎ、魚がいそうな釣り場を探しながら土手を歩いていたなつかしい思い出が私の人生の中で一番うつくしいものだった。
「F組」の教室には「ちばてつや少女漫画全集」があった。「ユキの太陽」「みそっかす」「島っ子」などが、私の支えとなった。
高校は私にとって最後の人生のやり直しだった。内向的な、大人しい生徒はいじめの標的になる経験上から、私は率先して活動的に装った。高校1年生でただ一人、生徒会に立候補した。運動は苦手だがバスケ部に入部した。そこで演説をしたのが私の最初の「朗読」である。先生を身内にし、文化祭も、一度だけ体験したが、そこでも活動的だった。蕎麦屋とスカイラークでバイトもした。しかし力の加減が分からなかったのだ。疲れ切ってしまい、また突然不登校になったのだ。
「中退の届出」を校長に提出する前夜、やはり疲れきっていた母親が「それでいいのね? 辞めるのね?」と深いため息をついて言った光景が未だにこびりついている。母子とも、もう涙が出なかった。
これを書いている文章の硬さに、32歳の今でさえ、影響を及ぼしているようだ…。
辞めたあと、家族が眠り、家族が起きる間が私の活動時間だった。(これは小学生から続いていたが、特にこの時期がそうだった)
桜ヶ丘の丘のうえを徘徊した。チャイコフスキーを口ずさみながら死に場所を探していたのだ。それは橋の上、桜の木の崖に多かった。
今でもベランダから飛び降りた私の死体を思い出す。
はじめて詩を書いた。自分の死体を扱った「炎」という詩である。
16歳の冬だったと思う。
話は飛ぶが、18歳で家出をして農業共同体「新しき村」で同じ年齢の青年と出逢った。彼は私以上に壮絶ないじめ体験があり、ヘッセ、太宰という同じ拠り所を持ち、兄弟のように三ヶ月を暮らした。夜はヘッセ、武者小路、太宰、カント、ヒルティ、仏教、キリスト教の話が尽きなかった。今でも思い出す。新しき村の美しい梅の木の野路、あぜ道を、肩をぶつけながら語り尽くした夜の道を。しかし、同時にここでも「いじめ」は存在していた。彼は「どもり」がひどかった。コミュニケーションにつまづき、身体がひ弱であったため農業従事が厳しかった。大人である村民が森田直樹を徹底的に追放したのだ。最後に彼の下宿先の扉に「出て行け」と落ちないマジックで書かれ、それを黙って一生懸命消していた彼の姿を忘れない。その時も私は何をしていたのだろう。何もしていなかったことをしていたのだ。タナベ君同様に見捨てたという痛恨の念が、根を下ろして久しい。
彼はその後医療ミスで25歳の若さで殺された。しかし短大では講師もし、大学では哲学科を主席で通し、表彰されもした。未来ある詩人であり、哲人であり、画家だった。「亮ちゃんはもう少し楽になった方が良いよ…」いつも彼は私の隣にいたのだった。
つれづれ、書いてしまった。もう筆を止める。
現在の「いじめ」は、私の時代とは比べようも無いほどに陰惨で、犯人の見当たらない犯罪となっている。年間3万人以上の自殺者を12年以上続けているこの国に、海外から発信されたピンクシャツデーは見逃すことができない。私でさえ、幾度も自殺未遂をくりかえしてきたのだ。ドラマ「聖者の行進」(凄惨ないじめが描かれている)が放送された98年にはそれまでの自殺者数を八千人も増やしてしまってもいる。3万人が「いじめ」による自殺ではないにしろ、切実な人災として、報道されずにいる犯罪がなんと多いことか。「いじめ」は90年代、00年代、2010年代とますます根を下ろしていることに恥辱すら感じるのだ。
作家でありマイミクの中園直樹さんが立ち上げた「ピンクシャツデー・コミュニティ」がmixiにある。私も参加している。興味ある方はぜひ、立ち寄ってもらいたい。
いままさに死に際にある命に、届くことができればと願う。
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