っていうか、今日はなんにちだろう?
7月は
八戸やライブなどあったが
その他は、ひどく病んでいる。
精神崩壊きたす。
20代は、さまざまな夭折者と真向かい
闘いながら生きることができた。
しかし、今は相対するものが、無い。
もともとライバル不在が、文学上の不幸といえばいえるが
詩集、歌集出す夢も
ほとんど不可能に近い今現在に
それより他になんの興味も持てない自分は
途方も暮れて、谷底にいる気分でもある。
そんな六畳間に
ネズミだけが、自分の空気を共有してくれている。
頭を丸めるとか
旅だとか、それでは自分を救出することができないことも知っている。
まして、人に対して
なにを口にできるだろう。
家庭
いじめ
病
などは、契機に過ぎず
根本の問題は…あれだろう、あのことだろう?
一人の親友との決着がつかず
(それは亡くなってしまった彼でもない)
その拘りと、闘いから、頭徹して創作してきた、ようにも思える。
私は早く自伝的なる小説を完成させなければいけない。
書きかけは無数にあって、一篇も成していない。
試作の短編が十数篇有るのみ。それも二十代のごく浅い時期。
それと幾千の詩や短歌、俳句が転がっているのみ。
書けば安らかな躯だ。それは作品となって自分から離れてゆく。
書くまでが自分であって、書いてからは既に他者だ。
だから愛することができる。朗読もできる。
そして本当の眠りは、自分の到達する、ある確かな足場に
柔らかく萌えている草のそよぎの辺りか
でなければ
思い起こす多摩川の雪のような
あの、冷たさのなかでの眠りでありたい。
潔く。
いったいに自分は、僧侶か政治をやれば、役割はじゅうぶんにこなしていたろう。
詩を、知らなければサラリーマンもできたのだ。
または家族ができれば。
けれど、ゴルトムントになろうと思った。
ナオキ、君はナルチスとして逝ってしまったが
私こそ、知の追求者たる自覚があったのだ。
それを君が転換してくれた。
だから
ソシアルな詩も、俗謡も、五行歌でさえ必要になった。
俗世に下りて本願を成す。
創作とは、その自分の絶えざる追求の証明書のようなものだった。
少なくとも、自分にとっては。
ひとは、その証明書のうちに書き記されている僅かな履歴を眺め
「私」を採用してくていたのだ。
それは嬉しくも、思いがけない事件であった。
ほとんどの出逢いは、傷となってしまったが
その痛みこそ愛するべき対象なのだ。
内面への道は、宇宙をかいま見ることができた。
豊かな恩恵と思う。自分にとっては唯一無二の。
だから、怨みに飲み込まれてきた半生は、今はない。
そう思えるような気がするんだがね。
ただ、現在、この状況に至って
期待も希望も空になって
肉体のみが変に、煩わしいよ。
いさぎよく、いさぎよく、と念じながら
あの、友人との決着と
自分の到達すべき場所を
ゴルトムントとして
成す必要があるようだ。
潔く
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