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短歌朗読について

さきにこのブログにおいて、

私の発言に触れられた発言があったので、

それに僅かなりとも応える形で

所感を述べようと思う。

ごく簡略ではあるけど。

短歌の世界は

万葉集からその一律化した

(五・七・五・七・七)時点から

大いに歌の韻律が変貌を遂げた。

これは聖徳太子による

大陸文化の影響であり、その韻律は

古今、新古今和歌集において

頂点をみることになる。

それと同時に、

古事記では

多くはおおきみ(天皇)自身が

詠っていたのに対し

古今集時代においては

宮中、宮中に属する宮仕えの

立場の人たちが詠うことになる。

内容は

哀調の、ものがなし、が基本である。

これをどう歌人自身が

声に詠みあげるかが、

私の注目するところだけど、

そこに個性を、個人の言葉を

聞き取ることができないのは

宮中歌会始めによる

テレビを今現在観ても

変わりがないのが現状である。

これは、声の記録はないにしろ

一千数百年変わりはないと思う。

この一律化した韻律と

一律化した詠み上げに

私は大いに苦しみ理解ができなかった。

私自身、

五・七・五・七・七は好きである。

未だに破調よりも正調を好む。

しかし、私は短歌の宮仕えから脱却しない、

この現代にあっても同じ調子を崩さない

朗読のし方には同意しかねない。

あっても良いが、

それはごく一部だと思い

飲み込むしかできない。

しかし、

私は身内を戦争によって失くし、

戦後、国の医療ミスによって

ただ一人の親友も失くした。

戦争では

真珠湾攻撃に参加した大伯父が

珊瑚海海戦によって

空母レキシントンに特攻した。

いうなれば神風特攻一号にも等しい。

その弟はピアニストであり、

嫌々ながら招聘され、

台湾で餓死とんも病死とも知れず

雑巾のように絞られ死んだ。

二人の兄弟の葉書、辞世の作品がある。

友人は

大量の投薬により

ショックで死んだ。

その死んだ友人の口癖は

「俺は日本に殺される!」

だった。

当時の私はその言葉を真に受けず、

杞憂すぎるとかえってたしなめた。

今は痛恨の思いばかりが

私をひりひりと苦しめている。

夢からいつまでも覚めないような

感覚で現在を私は生きている。

これを天皇のせいにもできないし、

だれのせいでもないのだが、

宮中に隷属した詠み上げには

かなりのアレルギーがある。

だれか個人ではないのである。

それに、私が触れた前の記事でも

そういった朗誦に対し

個人で云々ではまったくなく、

内容が戦争によって喪った

戦友への哀歌であろうと、、

では、なぜ自分の肉声で、

自分のリズムを模索せずに、

との思いがあったが、

その模索をした結果であれば、

なおさら、

アレルギーを止めることはできない。

かなしいものはかなしい。

ただあの、ますらおの~~~

だとかいう伸ばし方で、

死んでいったのか、

みんな

お母さん!

死にたくありません!

だったのではなかったろうか。

少なくとも私の身辺はそうだった。

古事記ではすばらしい歌が多い。

この神酒(みき)を

ささ、飲んでくれ という

長歌もある。

いまに夫のあるお前を奪うぞ、

といった凄みのある歌もある。

古事記の六割以上が破調である。

この例を見ても

いかに万葉集以降が

全哀調、全韻律一律化したことに

違和感を持つのは当然のことだろう。

繰り返し言うが、

もはや個人の行為云々ではないのである。

さいきん

某商業歌誌などでも(今は廃刊か?)

CD付で短歌朗読が収められていたが、

それは宮中以下の

工夫のない朗読、

単なる読み上げ、

でしかなかった印象がある。

朗読は、

いま厳しく問われていると思う。

私自身、

ある詩人からも厳しく

君の内容は良いが

その絶叫はよくないと言われた。

しかし、私は私自身の朗読を

模索中である。

生涯模索であることだろうけれど、

これは続けてゆくしかない。

医療ミスによって失くした友人や、

戦争で失くした身内の声が

聴こえてくる。

それを、自身の

言葉と重ねて、

絶叫に近いスタイルが生まれた。

これは個人名をあげるが、

三年前、歌人福島泰樹先生に出会う前から

六年以上前から

すでに俳句によっても朗読している。

周りを省みる時間が余りにも乏しいが、

言い訳にはならない。

私の言葉が不快に感じられた方にも、

それは申し訳なかったと言うほかは無い。

居直りではなく、

心底、申し訳ないと思う。

短いが、

これを所感とする。

様々な朗読の仕方があって、

様々な魂の交流を

私は願い築いてゆきたいと思う。

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

確かに、歌詠み会では無難な内容のものを、とうとうと詠まれる場合が多いであろうとは思いますが、あの読み方を退屈と思っていた自分にとって、其の繰り返しによるところのトランス的なものもあるのではないか。
と思いいたりましたのは、最近、習いをし出したお謡とお仕舞の世界に触れる機会があったからでもあります。
とても、心地よい韻律、腹の底からわき上がるような声というのは、聴く方にも、お謡をする方にも、響いてくるという事に気づきました。
それは何百年という月日にも耐えうる、積み上げられて来た芯のある凄みだとも思います。

投稿: 明子 | 2008年11月17日 (月) 07時19分

歌会と、現代短歌の朗読を同じレベルで考えるのは、考え違いも甚だしい。歴史認識の無知である。「万葉集以降が全哀調、全韻律一律化」というのも全くの勉強不足である。これは「所感」というよりも、自らの恥を晒しているだけである。削除したほうがいいですよ。

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月20日 (木) 21時59分

樵耕蛙船さん

コメント今読みました。
では、万葉集、古今、新古今で哀調でない歌を指し示してください。それに、哀調と感じるのはあくまで私個人の今現在までに感じ、読み取った上での発言です。
無知などとという言葉こそ、不用意な発言と思います。現代短歌と歌会というよりも、私はあくまで朗読についてのみ所感を述べたところです。現代短歌も現在は多岐にわたって、それぞれの朗読があるでしょう。一つ一つを別に取り上げようとは思いません。あくまで歌会始の歌会についてのみ発言したと受け取ってください。

 K拝

投稿: | 2008年11月22日 (土) 12時11分

Kさんへ
 「無知」という言葉は失礼いたしました。お詫びいたします。
 
ただ歴史認識の問題で、例えば「古事記では多くはおおきみ(天皇)自身が詠っていた」というのは研究不足ですね。
 『古事記』の多くの歌謡には、『古事記』以前の古代から伝承されていた多くの歌謡を稗田阿礼などの語り部たちグループが、天皇の名の下に編集整理したものと考えられています。
 それは何故か。
 巫祝王としての権威のために、天皇は文字呪能の力が備わっていなければならないからです(「巫祝王」「呪能」については白川静『初期万葉論』『後期万葉論』に詳しい。中公文庫で手に入りますよ)。
 それと「古今集時代においては宮中、宮中に属する宮仕えの立場の人たちが詠うことになる。」に関しては、風巻景次郎の著作をお薦めします。
 
 ところで「万葉・古今・新古今」のすべてを「哀調」だと述べておられますが、そのように、ひとくくりにするほうが、暴論だと思いますが、如何。それにその考えに固着しているならば、私が指し示した歌すべて同じ「哀調」だと切り捨てるに違いない。初めに「哀調」ありき、では話にもなりません。 
 しかも、そうした貴君の考えでは、ひとつひとつの歌の微妙な色彩の違いが消えてしまうでしょう。
 「古典」として現在に残っているのは、その幽かな違いがあるからなのではないでしょうか。同じ「哀調」であれば今、何も残っていないでしょう。
 これは貴君の詩の内容がいいのに、同じ調子で「絶唱」するのと同じ発想です。それでは「詩」が「哀れ」です。貴君の詩の多くは、小声で、そして静かに「朗読」したほうがいいのがある(ほとんどすべて)と思うのですが、如何。

 正月の歌会に関しては、アレルギーも何も起きやしない。そんなに目くじらを立てるほうがどうかと思うが。ただ、これでひとつパロディでも書くかと少し思うぐらい。しかし、きっと松の内過ぎたら忘れているでしょうね。

 最後に。貴君の言う「全哀調」であるところの「万葉・古今・新古今」は、私にとっては文学発想の無限の富です。
 再読をお薦めします。


では、御身大切に。


 
 

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月22日 (土) 16時23分

樵耕蛙船さん

コメントありがとうございます。
私はまず、ブログの扱い方では
日々の呟き、モノローグであるので
真正面からこのようなコメントを頂き、
ちょっと困惑しました。
ブログも雑誌媒体による活字も
同じ責任がある
とは分かっていながら
やっぱりぼやいてしまうんですよね。
そういったことで
ちゃんとお応えできないことを
予め謝罪いたします。

私は研究家ではないので、
なるほど、指摘していただいたことは
そのように呑み込むことができました。
私の持っているのは
世界文学大系の筑摩書房「古代記紀歌謡集」
ほか文庫本角川文庫の「古事記」「日本書紀」「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」のみです。これに梅原猛、草壁焔太さんお二人の古事記観があるのみで、私はそれほど知識を持っている人間ではありません。お薦めいただいた本はいずれ手に取る機会もあるでしょう。感謝です。

私は和歌自体が大陸からの輸入ものであると思っているので、聖徳太子の出現以降、その韻律ががらりと変貌しましたけど、基本的には聖徳太子以前からも大陸からの伝来により、日本の和歌というものができあがったものと解釈し、そこにオリジナリティを見出す僅かなものとして「古代記紀歌謡」の長歌に現代詩にも通じる五・七でない物思いの、呟きを感じることができ最初、読んだときは嬉しかったものです。

私は古事記の歌はおおきみ自身の歌を祐筆ふひとらが文字に残したと思っていました。呪の権力については了承しています。それがために祭事で呪能を示せず失脚したおおきみも多くいますからね。

私の朗読を聴いていただいて、これも感謝です。私の朗読の現在の趣向は絶叫にありますので、これの変更はないでしょう。ただ詩の朗読にかぎっていえば、できるだけ静かに、たんたんと呟くスタイルもあります。目下模索研究中ですのでご容赦ください。
いずれ、歌集も出したい、第三詩集も出したいと思っています。なにしろ一万篇ほど詩、短歌、俳句がありますから。

研究する時間がなく、創作のみ力を注いできました。これからは充電期間として、そのように示していただいた本を読むにも悪くはないなと思っています。

ちょっと取り急ぎではありますが、これで失礼いたします。またブログに遊びにきてください。これからはブログにも作品を掲載してゆこうかなと漠然と思っております。

 K拝

投稿: K・RYO | 2008年11月23日 (日) 11時52分

Kさんへ

「永遠のカノン」は、なかなかいいですね、ただ最近の「衣」15号の貴君の作は、最近のものとしても出色と思うのですが、如何。
しかしながら、私は貴君の「絶叫」絶対説には同意しません。それは自分の表現の幅を狭めてしまうのではないか。様々なバージョンで、詠ってください。そうでないと自分の首を自分で絞めてしまうのではないでしょうか。

最近、松岡正剛が「白川静」を書いています。これは新書では惜しい作です。是非お読みになることをお薦めします。これは貴君の「古代歌謡」観を根本から変えるものと信じます。近々、この作品について、お話したいものです。

今日は、このぐらいにて。

投稿: | 2008年11月23日 (日) 22時01分

失礼しました。2008年1月23日22時01分は、私です。

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月24日 (月) 01時09分

樵耕蛙船さん、

「衣」もお読みになられていたんですか!
驚きました。
樵耕さんは
詩をお書きになられているのでしょうか?

千駄木界隈は最後の連が浮わついて
個人的にはどうかと思う作品ですけど、
ぼくは感知する…
のくだりには自信がもてました。

ただ独創性に欠ける欠点があるばかりです。

短歌絶叫が全て、
というわけではないですよ!
また私の絶叫はまだ弱いですから、
すべては目下模索中でして、
いろんな方面を衝く朗読を
続けてゆきたいなと思っています。
ユーチューブの詩の朗読を
ぜひ聴いていただきたいです。

ありがとうございました!

 K拝

投稿: K・RYO | 2008年11月24日 (月) 10時47分

Kさんへ

「千駄木界隈」は、例えば「すべてがまこと順調」「奉仕」という言葉に、遠雷に近い形で「中原中也」の響きを感じていますが、如何。「奉仕」という言葉に、どうしても「中也」を感じる。「中也」の毒は強烈ですからね。「奉仕」という言い方ではなく、自分の言葉で語ったほうがいいでしょうね。
ただ構成という点では『朝のワーク』『魂の場所』とは違った何かを少し感じますね。その可能性が私の評価の高さなのですが。貴君が「居場所」を変えたせいでしょうか。
付け加えると『魂の場所』について、私は、この題名が、詩集の内容を傷つけていると思います、いや不快ですらありますが、如何。

ユーチューブの詩の朗読、聴きました。私には詩の内容と、切迫な朗読が、うまく合っていないように思えます。もう少し柔らかいほうがいいですね。

もう一つ、貴君が最近「寄稿」している「詩」は、いけない。ああいう「詩」ではないものを出してはいけない。今からでも遅くないから、差し替えるべきです。
貴君にとって、詩は書き捨てではないでしょうから。

冷たい雨が降り始めました。御身大切に。


 

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月24日 (月) 15時58分

樵耕蛙船さん

コメントありがとうございます。
機構がどの詩誌を指しているのか
わかりませんが、
スペースのことでしょうか。

朗読スタイルは控えめにやると音楽に負けてしまうので、しかも、ピアノはあくまで
伴奏ですから、試行錯誤のすえに
ああいう朗読でいこうかと思っているのですよ。

スペースは大事な機構先で、さまざまなニュアンス、一般的にもリリカルに伝わるよう、工夫してはいますが、なにぶん詩の朗読では
お手本になるのがあまりなくて。

千駄木界隈は一気に書いたもので、
新川和江さんにも言われましたが
推敲はしないたちなのです。

これは二十数年費やして
書いてきたもので
いたし方ありません。
朗読も
怒り、叫び、時には静かに、
色々交えています。
歌人の福島泰樹先生からのご指摘もありますので、絶叫せよと、言うのですよね。
私は元来は物静かに朗読するほうが
得意なのですが…

ぜひ一度、ご自宅が近いようでしたら
来月6日も今年最後のライヴしますので
聴きにきてくださいましたら
ありがたいです。

mixiはやっていますか?
もしそうでしたらメッセージください。
ニックネームK・RYOで参加しています。

中也は私に多大な影響を与えました。
それがために苦しんでいます。

創作は常に故人と未来の人に向けて
発信しています。

ご忠告感謝です。

取り急ぎ失礼します。

 K拝

投稿: K・RYO | 2008年11月27日 (木) 09時07分

Kさんへ
貴君の詩そして朗読に対する態度が少し見えてきました。

まだ貴君に質問したいことがあります。
貴君の詩には「伴奏」がありますが、しかし何故「音楽」が必要なのでしょうか。
貴君の詩は十分、「音楽」から自律していると思うのですが。「音楽」が単なる効果音であれば、いらないと思うのですが、如何。
それに「負ける、負けない」とは、おかしいと思うのですが、如何。

そして、もう一つ。
貴君は「歌集も出したい、第三詩集も出したいと思っています。なにしろ一万篇ほど詩、短歌、俳句がありますから」と記しています。私は「第三詩集」期待しています。
しかし「一万篇」のストックがあり、それを「詩集」にしたいというのは、いささか後ろ向きの姿勢ですね、
思う存分の詩が書けたならば、「一万篇」を捨てる覚悟が欲しい。
そして「一万篇」前の「詩」と現在の「詩」が同じであれば、「進化」も「変化」もないことになる。なによりも「自己模倣」の繰り返しになる。過去よりも現在の貴君の「詩」が読みたいというのは、読者の我が儘でしょうか。

私としては貴君の長文の「朗読」論も読んでみたいものですね。

きょうは、これで。

 

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月27日 (木) 13時39分

明子さん

お返事すっかり遅くなってしまいました。
どうもすみません!

たしかにトランス的になりますよね。
それがあの朗誦にある呪力として
良い面で言えるかと思います。

私個人としては、そのトランスしてしまう
ところに、わだかまりがあるのですけどね。

自分の短歌では絶叫スタイルを
どうしても根本におきたいのですが、
それも呪力かもしれません。

どちらにしても短歌は
奥が深く歴史が長く、
なかなか一筋縄ではいきません。

またライヴします!
出来得ることからやってゆきます。
コメントありがとうございました!

 K拝

投稿: K・RYO | 2008年11月28日 (金) 09時08分

樵耕蛙船さん

すべてにすぐにお応えできないこと
まずお詫びいたします。

自分の詩には極端にいうと
朗読しながら書いていますから、
確かに音楽は必ずしも
必要としていません。
あくまでライヴの現場で
必要性を帯びてくるので、
これは
ライヴをするならば必要となってくるわけです。いまは歌人福島泰樹の月光で
福島先生のライヴを観ていますので
なおさら、伴奏でなく
ステージとして音楽が必要なのです。

私は長く書いてきましたが、
後ろ向きといわれても
致し方ありません。
どうしても
二十代前半
ひとりでバイトしながら
深夜に書いて書き溜めたものの方が
はるかにエネルギーがあり、
それとの戦いでもあります。
けして
自己模倣しているわけではありません。
ただ
自己模倣に陥る危険性は
常に孕んでおり、
そうとうに苦しんでいます。

鉱石や
今度行うライヴで
雪標
という作品もありますが、
そういうものが
生まれてくるのを期待しつつ、
努力してゆきたいと
毎日思っているわけです。

今日はこれから出勤です。
夜は帰りが深夜十二時回ってしまい、
なかなかすぐにお返事できませんが
ご容赦を。

負ける負けない、は
やっぱり詩を書いていて
感じる実感です。
私は詩人よりもスポーツ
たとえば
イチロー選手などに詩を感じます。
どうしても
単純に自分の詩の世界の中で
勝負があるのですね。

ほかの詩人に対しても
若干
競っている観はあります。
それが
すばらしい
詩の世界を築いている
生き身であることの
なりわいかと思います。

それでは、また!
いずれ第三詩集編みます。

さしあたって
第一詩集「朝のワーク」が
また復刻されます。
年内に出ます。
書店には置かれますので
ご一読ください。
昨日、
それの打ち合わせがありました。
前回のをそのまま踏襲する方向で
シンプルな白地で
文字と帯文だけ黒く
朝のワーク
とあります。

それでは、また!

 K拝

投稿: K・RYO | 2008年11月28日 (金) 09時22分

御返事有り難うございます。
青樹社版の『朝のワーク』入手しています。入手時に拝読し今回読み直しましたが、特に「水底の空」「巻きあげられる」「カルマ」は、いいですね。「朝のワーク」よりも「水底の空」を何故、総題にしなかったのか不思議なくらいです。
しかし『魂の場所』は詰め込みすぎの感があります。
「第三詩集」は、もう少し読みやすく読者にお届けください。

「自己模倣」と「自己満足」は、蠱惑的な猛毒です。お気をつけて。


今日は、このへんで。

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月28日 (金) 22時17分

樵耕蛙船さん

こんばんは。
いま仕事から戻って落ち着いたところです。

詩集「朝のワーク」のなかの
朝のワークという詩は
私の代表作ではありません。
むしろ、
朝のワークという詩を
この詩集から外したかったほどです。

このタイトル名には
出版社の意向があり、
私自身も
長い夜からの脱却という念願が強く
タイトル名には
不満はなかったのです。

けれど、詩は不満でした。

今度年末に出る文芸社VA版には
詩集タイトルは変わりませんが
朝のワークという詩は存在しません。
一昨日、編集長さんと相談したのですが、
詩の名前を変更しました。
それと
20代前半の第一詩集に入らなかった
私個人の思い入れのある作品
六篇が追加されます。
拾遺集的な新たな第二章を追加しました。

もっと完成度の高い詩も
無数にあるのですが、
色が違うので六編に留めましたが
本当の第一詩集は
私の死後だれかが編んでくれるでしょう。
こんなこと今から言うのも
おかしいでしょうけど、
いつまでも過去に拘っては
いられませんので…。

水底の空は
散文詩として勢いのある
瑞々しいものですが、
象徴的なタイトルとは
思えませんでした。
ただタイトル名候補ではありましたけど。

魂の場所は
完全に出版社の意向です。
ほぼ企画出版ですし、
H氏賞を想定していたらしいですが、
58篇は多すぎですよね(笑)。
ただ昭和初期の詩人たちと肩を並べる
という野心に満ち溢れたもので、
無冠の詩集として
これも名誉ある誇り高いものとして
私はこの詩集を愛しています。

「朝のワーク」は苦い出発でしたが、
「魂の場所」はほろ酔いの詩集です。
まだまだ足りないくらいです。
最近の詩集は20篇に満たないものが
主流ですが、この流れは余り好きではありません。
一生に一度出すか出さないかという
意気込みで箱に詰め込んだ私の動脈静脈です。

第三詩集の話をしますと、
これはレッドアルバム
朱色の詩集にしようと思っています。
白、黒、赤と
安易でしょうが、これは私の歴史の
一つの心電図のルーツです。
そして新しいルートとして
古典的な詩集として永遠の金字塔を
打ち建てたいと思っております。

歌集は
月光から近いうちに世に問います。
「風の挽歌」というタイトルになるでしょう。
まだ早い宣言ですが、
このようにブログで会話できることに
感謝しつつ
今から公表することで
また前進やむなくさせることで
奔ってゆけそうです。

ありがとうございました。

 K拝

投稿: K・RYO | 2008年11月29日 (土) 01時59分

第一、第二詩集の「もうひとつのあとがき」を書いていただき有り難うございます。それと、ようやく前向きの発言になって来ましたね(微苦笑)。

ということは、文芸社版『朝のワーク』は、復刻版ではなく増補版ですね。売るためには、ちゃんと「増補版」を謳い文句として売らないと。過去の作品を入れるというのが、少々不満ですが。


「最近の詩集は20篇に満たないものが主流ですが、この流れは余り好きではありません。」は、私も同感です。最近の詩集は読み応えがないのが多くて、いけない。
もう少し、その人の詩想を知りたいのに、というところで終わる。30~35篇前後でしょうか、ちょうどいいのは。


第一歌集、期待しています。


ところで、貴君のなかで、「詩」と「短歌」と「俳句」は、どのような使い分けをしているのでしょうか。そのあたりを知りたい。

では。

投稿: 樵耕蛙船 | 2008年11月29日 (土) 13時34分

山田美妙をかたって、
粘着質な書き込みをするのはいかがかと思います。

葛原りょうは本名で勝負しているのに、
衣とSPACEの関係者である貴方が、
筆名を明かさずに荒らしに近い行為をするのはどうかと思います。

以上、いち歌人としての意見でした。

投稿: | 2008年12月 1日 (月) 19時17分

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